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まつお正秀の一般質問
2013年12月12日

テーマは平和行政について


 一つ目のテーマは平和行政についてです。
 西宮市が平和非核都市宣言を行ってこの12月10日で30年を迎えました。同時に今年、文教住宅都市宣言50年、環境学習都市宣言10年も迎えたことから、3宣言記念集会が9月16日に行われ、11月16日には平和の集いも開催されたところです。
 さて、5年ごとに開催されている核不拡散条約(NPT)再検討会議は、2000年に全会一致で明確な核兵器廃絶の合意をしながら、2005年にはアメリカなどの反対によってなんら見るべき合意を得ることが出来ませんでした。そのことから2010年の成功にむけて、国連やNGOなどとともに各国での草の根の運動などが大きく広がり、2010年の会議では三つの合意がなされました。一つは、核兵器のない世界を実現する、二つ目がその具体化としての枠組みを作るという合意で、ただこれは期限を明確にできない曖昧さは残りました。そして三つ目は、そのための努力をするということです。これが核兵器保有国も含めた全会一致で確認がされたのです。またその後、国際社会が化学兵器を禁止してきたこれまでの経緯に学び、核兵器は非人道的に廃絶すべきものということを確認する声明が準備され、今では125カ国の賛同へと広がりました。この声明は、NPT会議はその三年前から準備のための会合が開催されており、昨年がその年に当たり、5月の準備会合でこの声明が16カ国の賛同で発表されました。その後、昨年の国連総会で34カ国、次回会議の二年前となる今年5月のNPT再検討会議準備会では80カ国が賛同しましたが、日本政府はいかなる場合も核兵器を使ってはいけないという文言のいかなる場合に賛同できないとしていずれも加わりませんでした。しかし、今年の10月に行なわれた国連総会において、ついに日本も賛同することとなったのです。
 1954年のアメリカによるビキニ環礁における水爆実験以降に大きく広がった核兵器なくせの運動は、「NHKのその時歴史は動いた」でも紹介されましたが、瞬く間に3200万筆を越える署名が集まり、その翌年に原水爆禁止世界大会の開催、その翌年には原爆被害者団体協議会の発足へとつながっていきました。以来、原水爆禁止世界大会や平和行進が毎年行なわれていることはみなさんも御承知の通りです。ビキニの水爆実験の後に全国に広がった核兵器廃絶の運動は、西宮では1958年に思想信条の違いを超え、当時は議会のすべての会派も加入して原水爆禁止西宮市協議会が立ち上げられて反核平和活動が行われてきました。その後、市民からの請願の可決をきっかけとして1983年には西宮市が県下にさきがけ平和非核都市宣言をおこなったのです。そして、2010年5月のNPT再検討会議成功へと世論が大きく高まった直後の2010年8月、西宮市は平和市長会議に加盟しました。1982年に広島市長と長崎市長が呼びかけられた平和市長会議は、1990年には54か国288都市、西宮市が加盟した2010年には144か国4069都市に、今年の12月1日時点で、158か国5831都市へと増え続けています。平和市長会議は、2020年の核兵器廃絶を目標に掲げていますが、その目標まであと7年余りと迫る中で、再来年のNPT再検討会議において、前回合意された核兵器廃絶のための枠組みの具体化、すなわち核兵器禁止条約の締結の合意なしに目標は達成できません。ですから、そのための交渉が各国でおこなわれるかどうかにかかってきます。その中で、西宮市としてどのような役割をはたしていくのかがいま問われているのではないでしょうか。

 そこで質問です。
 一点目、一昨年度から平和市長会議国内加盟都市会議が開催され、二回目の会議を除き市長自ら参加されました。今年は世界から集まる4年に一度の総会も広島で開催されましたが、この平和市長会議総会に初めて参加された感想をまず伺います。
 二点目、今年平和非核都市宣言から30年の節目に立って、核兵器廃絶にむけて今後具体的にどのようなことに取り組むつもりかお聞かせください。
 三点目、西宮市の被爆者は約400人ですが、年々高齢化が進んで亡くなる人も増えています。このことは被爆の実相を語り次ぐ人がいなくなることでもあります。今後被爆体験を始め、戦争の悲惨さを語り継いでいくためにどのようなことを考えているか伺います
 四点目、2010年のNPT再検討会議のときには藤沢市や草津市などの自治体が、会議成功の為に世界から集まる国連要請団に代表派遣を行いました。再来年に開催されるNPT再検討会議に市原水協なども含めて西宮市から代表派遣を検討してはどうでしょうか。